子宝に恵まれなかった豊臣秀吉の子孫は今もいるのか!?

豊臣秀吉 子孫

 

天下統一を果たし多くの功績を残してきたのが、豊臣秀吉ですね。明るい性格で、多くの人が幸せに暮らせた時代だったと今では言われています。
そんな豊臣秀吉の子孫は、今でも繋がっているのでしょうか?

 

 

子宝に恵まれなかった秀吉

 

豊臣秀吉 子孫

 

豊臣秀吉といえば、女好きで知られ10人を超える側室がいたとされています。

 

最終的に亡くなった原因は性病だとも言われるほどで、多くの子供がいたようにも感じますよね。

 

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天下統一を果たした豊臣秀吉の性格を考察してみよう

 

ところが豊臣秀吉は、子宝に中々恵まれませんでした。現在確認されている子供は3人で、そのうち2人は若くして亡くしてしまい、成長したのは秀頼だけだと言われます。

 

そのため、豊臣秀吉の子孫として豊臣秀頼のみが成長するのですが、この秀頼もどうやら子宝には恵まれなかったようで記録では2人、可能性の高い隠し子が1人いたとされます。

 

 

秀吉の息子秀頼で途絶えている

 

豊臣秀吉 子孫

 

子孫である秀頼の長男の国松は、8歳のときに大阪城が落城して京都に隠れているところを発見されて処刑されます。

 

妹の奈阿姫もすぐに捕まりましたが、こちらは千姫のところの幼女となって鎌倉東慶寺において出家をして、天秀尼という名称で生涯を終えたので、子供はいませんでした。

 

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そう考えると、豊臣秀吉の子孫は秀頼の代で途絶えてしまっていることが分かります。

 

ところが、8歳のときに処刑されたという国松は生存しているのではないかという説もあります。

 

 

実は秀吉の孫「国松」は生きていた可能性がある

 

豊臣秀吉 子孫

 

木下延俊という秀吉の正室の兄の子供の四男の木下延由が、豊臣国松であり、処刑されたのは身代わりだったというのです。

 

木下延俊は3万石しか領地が無いのに、死亡するときには1万石もの領地を、四男に与えようとしていました。この遺言を聞いた家臣はその半分である5千石を木下延由に与えたとされます。

 

四男にこれほどまでの領地を与えるというのは、過分分与ですから当然木下延由とその兄弟の仲は最悪になります。木下延由は名前を変更したり、年齢を詐称していたりと謎が多い人物です。

 

幼名は別なのに、位牌には「国松」と刻まれているのです。明治維新後に木下延由の子孫が、苗字を豊臣に戻して、秀吉の子孫を名乗るなどしました。

 

 

血は途絶えているが後継者は存在した

 

豊臣秀吉 子孫

 

豊臣秀吉の子孫というところでは、秀頼の代で途絶えていますが、豊臣家の後継者では正室の高台院との関係があります。

 

高台院は、兄の木下利房の子供である、木下利次を養子として育てています。そして近江の遺領である3千石を与えます。彼女は養子に「羽柴」の名字と「豊臣氏」の氏、そして豊臣家継承者の資格を与えます。

 

ところが幕府は、高台院が亡くなると羽柴を名乗ることを禁止します。近江の木下利次が豊臣家の一応の後継者となります。

 

 

子宝に恵まれなかった豊臣秀吉。その血脈は子供の秀頼の代で途絶えてしまいます。氏を名乗るというところでは続いていますが、天下統一を果たした人物としては、もっと続いて欲しいというのが実際のところかもしれません。