最近になり「聖徳太子」は実はいなかったとされている4つの説
聖徳太子といえば、歴史の教科書で必ず登場するなど、日本の歴史を考える上で欠かせない重要人物ですよね。十七条の憲法や冠位十二階などの政策が有名です。
そんな聖徳太子ですが、実はいなかったのではないかと最近言われています。
どうして、いなかったという説が浮上しているのでしょうか?
日本書紀に厩戸皇子は記載されていない
聖徳太子と呼ばれているのは厩戸皇子のことです。日本書紀が誕生したときに、聖徳太子という名称に変更されており、それが今では当たり前となり伝わっていますよね。
この厩戸皇子という人物が実在したというのは、書物などで確認ができます。しかしこの人物が聖徳太子と同じなのかどうかという点では、疑問が残っているのです。
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厩戸皇子の実績で確かだと言われているのが、十七条の憲法と冠位十二階のみです。随書に記載されている事柄ですが、その随書には推古天皇や厩戸皇子については一切記載が見られません。
日本書紀においても、厩戸皇子のことは記載がされてはいないのです。聖徳太子というのは、そう考えるといなかったのではないかと考えられます。
皆が知っている肖像画は実は本人ではなかった
聖徳太子がいなかったとされる説には、「肖像画が本人ではない」という研究がされているからです。
聖徳太子の肖像画といえば、日本最古と呼ばれ1万円札にも描かれているなど、誰もが知っていますよね。
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実はこの肖像画は聖徳太子では無いと最近は言われているのです。その根拠は頭に被っている冠と衣服、さらにシャクも聖徳太子が生きていたとされる時代には存在しなかったものだと考えられているのです。
大化の改新以降のもので、顔に描かれるヒゲも後から誰かが付け足したものだとされています。
十七条の憲法には不明な点がある
十七条の憲法も、本当に厩戸皇子が存在している時期に作られたものなのか、疑問視する声も聞こえます。
役人の呼び方や内容等に、当時ではあまり用いられていない後世の考え方などが含まれているというのです。
あとから、十七条憲法の内容が足されたのかは不明ですが、日本書紀にしか十七条の憲法の記載が無いとうのも少し不自然です。
推古天皇も創作の可能性がある
随史は608年に日本に来日しています。そのときに出会った王は男性だとしています。当時は推古天皇でしたので、当然女性でなければいけません。
そして推古天皇が王であるとしているのは、聖徳太子の関係で作られた史料でしか見当たらないのです。つまり聖徳太子だけでなく、推古天皇などもすべてが架空の作られた人物だったのではないかと考えられます。
日本書紀に聖徳太子が初めて登場するのですが、どうして有能な聖人と呼ばれる人物が、100年ものあいだ語られることが無かったのかも疑問です。
このように、聖徳太子はいなかったと考えるほうが自然だとされているのです。学校で習う歴史の教科書でも、聖徳太子という名前が断定ではなく、「聖徳太子とされている」という風に変わっているのです。
時代の変化によって、新しい発見はどんどんされていますから、聖徳太子に関する新しい事実が明らかになるかもしれません。楽しみにしていきたいですね。
引き続き、歴史の裏雑学をお楽しみ下さい↓
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