明智光秀が天海だったといわれる2つの理由と否定する問題点

明智光秀 天海

 

織田信長の家臣でありならがら裏切りを働き、本能寺の変において織田信長を襲ったのが明智光秀ですね。その後は平民に致命傷を受けて死亡したと通説ではされていますが、詳しい最期は知られていません。

 

そんな明智光秀ですが、天界という僧侶が明智光秀だったのではないかという噂も流れています。どうしてこんな噂が流れるようになったのでしょうか?

 

 

多くの謎に残された本能寺の変

 

明智光秀 天海

 

本能寺の変には多くの謎が残されています。そもそも、明智光秀の軍やルイス・フロイスはこの日に命を狙われているのは織田信長ではなくて徳川家康だと考えていたことが、記録によって分かっています。

 

徳川家康はこのとき、安土に到着して安土城において饗応を受けました。その後織田信長の命によって京都や堺などを見学することになっていたのです。

 

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5月21日に安土を出て、本能寺の変があった6月2日の早朝には、家康とその重臣の30名ほどが堺を出ており、信長に会うために本能寺に向かっていたという記録もあります。

 

織田信長は家康を警戒させないようにするため、本能寺の警備を手薄にしていたともされます。ところが、徳川家康は本能寺で自分を殺す計画があることを、明智光秀から聞かされていました。

 

 

徳川家康と明智光秀は裏で関係があった

 

明智光秀 天海

 

徳川家康は気付かないフリをして、本能寺を手薄なままにし、明智光秀が織田信長を襲いやすい状態に仕上げていたと考えられています。

 

つまり2人は密に連絡を取り合い手を組んでいたのです。

 

明智光秀が本能寺の変で織田信長を襲ったのは、徳川家康の命を救うためだったとも読み取れるのです。

 

これによって、明智光秀と徳川家康は裏でかなりの関係を築いていたことが伺えます。

 

 

明智光秀は生き延びていた

 

明智光秀 天海

 

明智光秀は本能寺の変の後、山崎の合戦において平民から致命傷を受け死亡したとされています。

 

しかしこれは豊臣秀吉が後日に都合の良いように書き換えているのではないかという見方が優勢です。

 

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実際は山崎の合戦において明智光秀は生き延びており、山深い場所で隠居するハメになっていました。

 

それがしばらく続いたのですが豊臣秀吉が死去したという知らせを聞いて「天海」という名称で徳川家康に近づきます。

 

 

最大の問題は「年齢」

 

明智光秀 天海

 

徳川家康は明智光秀が天海であることを知っており、僧侶として様々な仕事を与えました。また政治に対しての意見を述べるなど、当時の僧侶としては異例ずくめの対応をしていたことが分かっています。

 

このようなことからして、明智光秀と天海という僧侶が同一人物ではないかという説が出てくるようになりました。ところがこの説において最大の問題は「年齢」にあります。

 

もし明智光秀と天海が同一人物だとするならば、115歳で没したということになります。この時代にこれだけ長く生きる人物がいるのかというのは考えにくいです。

 

この年齢の問題もこの年齢まで生きていたということも、絶対にあり得ないという訳ではないので、問題をクリアすることができれば、より真実味は増すことになります。

 

 

明智光秀と天海という僧侶が同一人物ではないかという説は、現在多く聞かれます。あまりにも明智光秀の本能寺の変後の動きに不審な点が見られるので、現在でも研究が続けられているようです。