天下人豊臣秀吉の側室となった「茶々」の壮絶な生涯とは

豊臣秀吉 側室

 

天下統一を果たした豊臣秀吉は女好きとも呼ばれ、多くの側室がいたとされます。それでも子供に恵まれたのは側室の一人である「茶々」との間だけだったとのこと。

 

豊臣秀吉の側室にはどんな人物がいて、どういった生涯を過ごしたのでしょうか?

 

 

側室として有名な人物「茶々」

 

豊臣秀吉 側室

 

豊臣秀吉の側室として一番有名なのが、「茶々」ではないでしょうか。時代劇や漫画などでも多く登場し、その勝気な性格や大柄な態度などは両親の血を引いているとも言われます。

 

豊臣秀吉の一番のお気に入りであり、十分に可愛がられていたようです。

 

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今では小悪魔風なキャラクターとして確立していますが、当時はあまり良い印象は無かったようで、秀吉が亡くなった後を切り盛りしていましたが上手くはいきませんでしたね。

 

豊臣秀吉の側室で唯一夭逝しなかった子供を授かっており、一部では違う男性が父親なのではないかという噂も広まっているようです。

 

 

秀吉は茶々がお気に入りであった

 

豊臣秀吉 側室

 

豊臣秀吉の側室で有名な「茶々」ですが、父が浅井長政で、母が織田信長の妹のお市です。

 

豊臣秀吉は、お市をかなり気に入っていたのですが、お市からは受け入れてもらえなかったようです。

 

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女好きで知られる秀吉は、その気持ちを忘れることができず、三姉妹の中で一番母親に似ている美女を側室として迎えました。それが茶々です。

 

すぐに茶々は懐妊をして喜んだ秀吉は、淀城を与えてそこを茶々の住まいとしました。そのため、淀殿と呼ばれるようになったのです。

 

 

秀吉には13人の側室がいた

 

豊臣秀吉の側室では茶々(淀殿)が一番有名で、多くの人が知っているところですが、他にも12人の側室がいたと言われています。

 

側室の中でも一番身分が高い家柄出身だと言われているのが「月桂院」です。夫に置き去りにされてしまったので、秀吉の側室に入りました。

 

秀吉が病死した後は、京都の東寺で出家をします。1568年生まれの1655年没とされていますから、実に87年という当時としては異例の長寿でした。

 

 

豊臣秀吉の側室で子供を設けた茶々ですが、戦国時代の激動の中に巻き込まれていきました。他にも12人に側室がいましたが、茶々ほどの激動な人生を送っている人はおらず、やはり現代にも根強いエピソードが残るのは茶々なのです。

 

 

淀殿は最終的に母と同じ運命をたどる

 

豊臣秀吉 側室

 

最終的に淀殿は、徳川家康に追われて自害をします。それは母と同じ死に方であり、運命的なものを感じる人もいるほどです。

 

織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の戦国で活躍する武将の3人に運命を翻弄されてしまった淀殿。運命なのか策略なのか、豊臣秀吉との間に子供が出来てしまったことにより、大きく人生が変わったのです。