徳川家康が実は影武者だったとされる2つの説とその批判

徳川家康 影武者

 

長きに渡って天下泰平をもたらした江戸時代。その初代将軍が徳川家康ですね。日本の歴史が大きく変わった立役者であり、その伝説は現在でも語り継がれています。

 

そんな徳川家康には「影武者」を使用しているという説が浮上しています。人生のいつからの日か、徳川家康を影武者が演じているというものです。

 

どうしてそんな説が誕生したのでしょうか?

 

 

戦国大名はよく影武者は仕立てられていた

 

徳川家康 影武者

 

徳川家康に限らず、戦国大名の多くは戦場において、命を奪われないように影武者を仕立てていたことはよく知られています。

 

戦は頭脳戦でもあり心理戦でもありますから、上手く士気を上げるために影武者を使っていたのではないかと言われています。

 

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今も健在な徳川家康の子孫!倒幕されてからの歴史とは

 

徳川家康も、戦場ですでに死亡しており晩年までの家康は違う人物が代理で演じていたのではないかというのが、「影武者説」と呼ばれるものです。

 

この説で有名なのが桶狭間の戦いにおいて、今川義元が討たれた際に、徳川家康の父が家臣の安部正豊に暗殺をされました。

 

その当時3歳であった徳川家康が成長するまで、世良田二郎三郎元信という人物が松平家の家督を代行させたというものがあります。

 

 

実は関ヶ原の戦いで家康は死亡していた

 

徳川家康 影武者

 

桶狭間の説以外にも、1600年の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康が討たれたとき、影武者が徳川家康の代役として立てられたというものもあります。

 

また大阪夏の陣において、真田幸村の本陣突撃を受けた徳川家康は、逃亡中に槍を受けて堺にある南宗寺で死亡します。そこで影武者として小笠原秀政が成りすましていたという説も有名ですね。

 

堺にある南宗寺には「家康の墓」と称されるものがあるのも信憑性を高めている証拠です。

 

 

小説の素材のようなものだった

 

徳川家康 影武者

 

これらの徳川家康の仮説は、元々1902年の4月に「村岡素一郎」と呼ばれる人物が「史疑 徳川家康事躇」という書籍を出版したことで世の中に広まりました。

 

徳川家康は江戸時代を通じて神君とされていたので、その出自を疑う者などいませんでした。こうした話が出てくるのは、江戸時代が終わってから文明開化を経験した日本ならではの視点なのだろうと考えられています。

 

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歴史学者などは、この書籍について「あくまでも小説の素材のようなもの」と批判しており影武者などは存在しなかったという考えで統一しています。

 

つまり、徳川家康の影武者というのはその後に考えられたストーリーであり、実際の歴史とは何ら関係のないフィクションだという見解です。

 

 

影武者がいたという史料は見当たらない

 

徳川家康 影武者

 

徳川家康と影武者が入れ替わった時期などを裏付ける同時代の史料は、どの文書にも存在はしていません。

 

こうしたことから、徳川家康の影武者の説は小説を書く際に興味をそそるほうが、物語に深みが出るだろうという気持ちから取り入れられたものだという認識が強くなりました。

 

現在においても、あくまでも「噂」という領域を抜け切れない状態が続いており、ドラマや漫画などでもフィクション要素が強い仕上がりになっています。本当の歴史というのは、誰もその時代を見ていないので、何が本当なのかを判断するのはとても難しいです。

 

しかしながら、徳川家康の影武者という説は、現状否定をされているのです。

 

 

徳川家康に影武者がいたとしたら、戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史は大きく変わります。現在もその事実は史料等からは読み取れませんが、こうした説はロマンを感じさせますね。