織田信長が明智光秀に裏切られた原因はなんだったのか?

織田信長 明智光秀

 

織田信長は天下統一に一番近い存在でした。しかしながら、その夢を果たせずに1582年に自害という形でこの世を去ります。

 

これが有名な「本能寺の変」ですが、黒幕は織田信長の家臣で忠誠を誓っていた明智光秀だとされます。どうして明智光秀は織田信長を裏切るような行動を取ったのでしょうか?

 

 

本能寺の変には多くの謎があった

 

織田信長 明智光秀

 

1582年に発生した本能寺の変は、多くの謎に包まれています。

 

どうして明智光秀は織田信長を襲撃したのかについて、50以上の説がありますが本当の理由というのは明智光秀しか知らないものであり、戦国史最大のミステリーだと言われています。

 

襲われた本能寺は、ただの寺ではなく織田信長が信頼できるほど防御面に優れていたのでそんな簡単に襲われるような場所ではありませんでした。

 

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織田信長は、京都に滞在するときに、この寺を選んでいるということは多少なりとも警戒をしていたことを意味します。

 

しかしながら、このときに寺には100の兵しかおらず、明智光秀が率いる軍というのは13000ほどと言われており、明智光秀は織田信長を討ち取るための勢力を持っているのと同時に、計画性が伺われます。

 

 

織田信長の家臣に対しての考え方は斬新だった

 

どうして明智光秀が織田信長を襲ったのかは何も分かっていませんが、織田信長が家臣との距離感や考え方に新しい方針を取り入れてたことが関係しているのではないかという説もあります。

 

他の多くの大名は、家臣に独立性を認めて同等の身分とも言われる家臣集団なる組織を作るのが一般的でした。

 

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その当時の大名は、家臣からの支持を受けて初めて政権を維持できるというものだったのです。

 

しかし織田信長の場合は、自分で何事も判断をして行動をすることから「家臣」に対して、従来の考えを持っていないのではないかと推測されているのです。

 

 

光秀は信長の考えについていけなかった

 

織田信長 明智光秀

 

織田信長が考える家臣との距離感というのは、現代でいえば「社長」と「部下(店長?)」のような配置だったのでしょう。

 

織田信長から見れば、家臣というのは自分の目標や理念達成に向けた協力者であり、家臣に対して土地を与えるという報酬は、土地の一時的な織田家の管理責任を担ってもらうという考え方でした。

 

土地そのものは織田家の物という考えだったわけですから、家臣に対しては今までとは異なる配置転換なども発生することは十分に考えていたんですね。

 

明智光秀が織田信長を裏切ったのは、今までの考え方から抜け出せなかった為だという説が有力です。今までは家臣は同じような身分や立場であったのに対して、織田信長が考える家臣は、「社長」と「部下」のような関係だったからです。

 

 

コミュニケーション不足が本能寺の変を引き起こした

 

織田信長 明智光秀

 

明智光秀にとっては、織田株式会社の関連会社社長のような立場を望んでいたのに対して、織田信長は「社長」と「部下」という関係を貫いたところから、溝が生じて下克上に繋がったと考えられます。

 

まさしくコミュニケーション不足が招いた事態だとも言えなくも無いんですね。明智光秀としては、不服ならばそこを辞めて違うところで家臣として従えば良かったのでしょうが、それでは織田信長にいずれ倒されてしまうのは分かっていました。

 

そこで手薄な警備体制が敷かれている本能寺で攻めれば、もしかしたら天下も取れるのではないかと考えて、下克上を果たしたと考えられています。

 

 

織田信長と明智光秀は、コミュニケーション不足が原因でこうした事態になったのではないかという説が、今のところ有力のようです。

 

しかし本当のところは、明智光秀にしか分からないところで、詳細が判明するのかも今のところ難しいようです。