天下人「豊臣秀吉」の死因には多くの説が語られている

豊臣秀吉 死因

 

天下統一を果たすものの、病死という結果に終わってしまったのが豊臣秀吉ですね。農家出身の身でありながら、天皇の成人後の教育する立場の関白になった人物として、現在でも人気です。

 

そんな豊臣秀吉ですが、現在のところ死因は病死とされています。しかし、意外にも死因はいくつかの説があるようで・・・。

 

 

豊臣秀吉の体調は1598年から悪化

 

豊臣秀吉 死因

 

豊臣秀吉は、1585年に大阪城を築城し「豊臣」という性を朝廷から与えられるようになります。

 

1590年には小田原城攻めのときに参戦した伊達政宗を配下にして、東北地方に対して奥州仕置を行って全国統一を果たしました。

 

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子宝に恵まれなかった豊臣秀吉の子孫の今

 

豊臣秀吉の栄華は翌年の1591年から傾いてしまいます。身内を病気で亡くし、さらに2度の朝鮮出兵をしたものの多くの人が戦死をした関係で、豊臣家の勢力は弱まっていきました。

 

1598年に醍醐三宝院において盛大な花見を催すなど、天下統一後から続く不運を払拭する行動を取るようになります。しかしこの花見の後に豊臣秀吉は病に倒れてしまうのです。

 

 

死因に関する史料は無い

 

豊臣秀吉 死因

 

病に倒れてからは、豊臣秀吉はどんどん衰弱していきます。下痢や腹痛、食欲不振の症状が見られ、わずか数ヵ月後にはやせ衰えてしまうほどでした。

 

当時は頻繁に使われていた漢方薬も効果は見られず、無意識に失禁をするということもあったようです。

 

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これらの症状から見て、豊臣秀吉の死因は、大腸がんなどの「がん」が大きな原因を作ったのではないかと見られています。

 

これ以外には、高齢による認知症、栄養の偏りから見られる脚気、性病の梅毒、女好きがたたり、過淫が原因の腎虚などがも挙げられています。死因に関しての史料がありませんので、はっきりとした原因は分かっていないのです。

 

 

ロドリゲスは状態を明確に記している

 

豊臣秀吉 死因

 

豊臣秀吉は62歳という年齢でこの世を去るわけですが、彼を見舞った人にキリスト教宣教師の「ロドリゲス」がいます。

 

ロドリゲスが見舞った際の豊臣秀吉は、「干からびたかのように衰弱しておりぼろぼろになっている。まるで悪霊のようで人間とは思えない」という記述を残しています。

 

平均寿命が40年程度と言われていた時代ですから、62歳という年齢は命を落としても不思議ではありませんが、それにしても異様な状態だということが分かりますね。

 

まるで生きる力を全て使い果たしたかのような醜悪な最後だったことが読み取れます。こうした記述から、豊臣秀吉の死因は腎虚や脳梅毒などの病気が関係しているという説が今でも根強くあるのです。

 

 

誰も秀吉の死因より今後の関心の方が強かった

 

豊臣秀吉 死因

 

一方で、豊臣秀吉のような天下統一を果たした人物の最期が記されていないという点は、今でも不可解な点です。

 

徳川家康は徹底的に豊臣秀吉のネガティブキャンペーンを実施したとされており、その時に史料を破棄してしまった可能性があります。

 

そもそも、豊臣秀吉の死というのは、新しい戦乱の幕開けであり誰もが「次は自分が!」という意気込みを持っていました。そのため豊臣秀吉の死因などは誰も興味を感じるものではなかった背景があるのではないかという考えもあります。

 

いずれにしても、豊臣秀吉の死因というのはそこまで関心が高いものではなく、今後どうなっていくのだろうという時代の流れの中に埋もれてしまったのです。だからこそ死因が分かるような史料が残っていないという認識が、今は支持されています。

 

 

豊臣秀吉の死因に関しては、明確な史料がありませんので全て憶測です。症状から病気を判断しているに過ぎませんので、本当はどうだったのか、今後明らかになっていく可能性も低いかもしれませんね。